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豊国神社 (ほうこくじんじゃ)

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元の名は「樹下社」(このもとのやしろ)。
徳川幕府により豊国大明神
(豊臣秀吉公)が壊された後、
密かに公の御霊をお祀りしてきました。
秀吉公は「木下」姓と、「日吉丸」
(幼少時代)の名前を名乗って
いましたので、「樹下社」「新日吉社」の
名前でカムフラージュして、徳川幕府の
監視の目をくぐってきたと伝えられています。

詳細はここをクリック


新日吉神宮の境内にあり、近くに有る「豊国神社」
(とよくにじんじゃ)とは異なります。


徳川幕府によって壊された豊国大明神は明治時代に
「豊国神社」(とよくにじんじゃ、豊国廟)として
再興されました。



樹下社の由来

桃山時代に豊臣秀吉公は方広寺大仏殿を
造営し、三十三間堂を含めて広大な
境内域になりました。
慶長三年(1598年)に秀吉公が没し
「方広寺」東の「油が峰」に墓所〈豊国廟社)
が設けられましたが、徳川幕府により
元和元年(1615年)に廃止が
決定されました。
そのために妙法院門跡・智積院・
新日吉社を豊国廟前に移しました。

この時に、豊国社のご神体は
新日吉社神殿に密かに
遷し祀られました。

天明五年(1785年)に改めて境内社として
樹下社(このもとのやしろ)を造営して
豊公の社殿と致しました。「樹下」の神
(玉依姫神)の神名を木下姓に通わせて
豊公の御霊を隠し祀られたと
言われております。

明治三十年(1897年)に豊臣氏ゆかりの
旧大名家が豊国廟の復興をはかり、
又その威勢をもって新日吉社は
南西方向の現在地に
移動させられました。

新日吉社境内社の豊国社(樹下神社)も
その時に現在地に遷座致しました。


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